Sunday, December 10, 2006

20020513 - 煙管帖 and 20020904 - OKミュージック・ボール『Da Da Conne』

このようなものが出てきた。るい君が入院した頃。で、OKのアルバムが発売された頃。
あの頃は(以下略)。
基本的に僕の音楽観はあんまし変わってなくて、僕は、「音楽」とか「うたもの」は嫌いなんだと思う。というか「音楽好き」が嫌いなんだと思う。マイノリティのプライドを正義感にすりかえているように見えるからで、古典的な分類を使用すれば、アドルノのいう「ルサンチマン型聴取者」が嫌い、ってことで、「イデオロギー」は明言化されないコミュニケーションの中に最も明白に現れるものなので、誰かを謝らせたい権威主義的な「左翼主義者」が嫌いなのと同じ理屈だけど、まあいいや。もう「ライブハウス」と、「ライブハウス」として、親しくすることはあんまりないと思うし。
で、僕は、黙っておおやさんにいじられるキャラをしていたらしい。この人間が、今や、音を用いる芸術について90分話してる(半分くらいは何かを聞かせたり見せたりしてるはずだけど)のであった。

この頃、僕は、誰が読んでたのか良く分からないOKのホームページ(というより僕のホームページ)に、以下のようなことを書いてた。
何かを仮想敵に仕立て上げて誰かにケンカを売るつもりはないけど、誤解に基づいて僕に関する虚像を構築して、僕を何かの駒の一つに参入しないで欲しい、とは思うようになった。あと、もう、こういうやり方でジョン・ケージを引用することもないと思う。
「シャバダバな生活」ってのは、ユニコーンからとってきた言葉なのだけど、これ、なんだ?

「どうやら「うた」という言葉は「虚構の世界としてのうた」と「日々の生活の中のライブにおけるうた」との理念的対立の中で特に後者を象徴する言葉としてクローズ・アップされて登場してきたものらしい。ということはつまり、この時注目される「うた」は(それが「芸術」を「芸術家の人生」に還元してしまう極めてモダンで古臭い用語でないとするならば)1950年代から60年代にかけてのいわゆる「現代芸術」のほとんど全て(フルクサス、ミニマル・アート、ポップ・アート等に限らず、「無意識」としての「人間の"本質"=生活、人生」に注目するシュールレアリズムや、「行為」を「絵画」に持ち込む抽象表現主義なども含まれるかもしれない)にとりついていた「芸術=生活(life)」イデオロギーが演出した「生活の芸術化」と「芸術の生活化」という理念的対立が示していた事態とほとんど同じ状況の中から出てきた言葉であり、おそらくは後者の「芸術の生活化」に対する志向を示す言葉だと考えることができる(例えばジョン・ケージは次のように述べる。『「芸術としての生活」を望むなら、私は唯美主義に陥ってしまう危険があります。なぜなら私が何かを、生 (life)に関するある種の観念を押しつけたがっているように見えてしまうでしょうから。私の考えでは、音楽は_少なくとも私が考える音楽は_何も押し付けないのです。音楽は私達の見方を変え、私達を取り巻く全てのものを芸術として見つめさせることができるのです。しかしこれは目的ではありません。音は目的を持たないのです!音はただ在るのであり、それが全てなのです。音は生きているのです。音楽とは、音のこの生(life)のことであり、生への音の参与のことです。そして_故意にではなく_生は音に参与することになるのです。音楽それ自体は、私達に何も強制しないのです。』『小鳥たちのために』邦訳 p.70、原文p.87)。ということは、かつてのアヴァンギャルドを相対化するために現在しばしば使用される、「そこで想定されている"生活"とは何か?」という問いが、この「うた」という言葉の胡散臭さに対しても有効なはずである。恐らく「うた」(あるいは「うたもの」)という言葉にまとわりつく胡散臭さは、この言葉が「うたとされるものと生活とされるものを同一視しようとする生活イデオロギー」を持つことに加え(「芸術」と「生活」が同じものであることを常に要求する正当な理由なんか存在しない)、そこで想定されている「生活」が、実は地域的にも時代的にも階層的にも極めて特殊的で限られたものであるにも関わらず自らをあたかも普遍的で誰もが所有可能なものとして表象しようとすることも、その原因だと思われる。おそらくそこで想定される「生活」とは、例えば、日々の御飯をゆっくり味わいつつ噛みしめ食後は鴨川で風に吹かれながら散歩し夜には良い音楽を聞きながらお酒を飲んで友人たちとお喋りし、といったシャバダバな生活なのだろう(そっかな?)けど、それはしかし、どこかある程度都市化が進んだ都市に居住するある程度生活に余裕のある種の人間だけが持つ「民族誌的奇習©レヴィ=ストロース」に過ぎないもので、従って、「うた」(あるいは「うたもの」)という言葉を無条件に肯定することは、レヴィ=ストロース以降の構造主義的思考の成果を無視し、あるいは「他の奴らは知らんけどおれらのなかまにはつうじるはずや」というスタンスを取ることによってのみ可能となると思われる。とはいえ勿論、フルクサスにおける「芸術=生活」イデオロギーがその先駆者としてのケージの「芸術=生活」イデオロギーとは異なる機能を果たしていたように、最近「うた」という言葉に注目が集まるようになったのにもまた、1950年代から60年代の現代芸術において「生活」という言葉に急速に注目が集まったのとは別の理由があるに違いないが、それについてはまたそのうち考えることにしておきたい(また、「うた」が「芸術」であるかどうかも不明である)。まあ、だから何ってわけでもないし、誰かにケンカを売ろうってわけでもないです。以上。」

No comments: