Monday, August 07, 2006

キセル - スキマミュージック番外編

キセル - スキマミュージック番外編
あぐらでエレキギターとエレキベースと打ち込みなので、古くとも、30年以内の産物でしかないので、ここに何かの既視感を求めるのは気をつけたほうが良いと思う、というか、僕は、数年前に対するノスタルジーは、まだいらない。
でも、懐かしい曲もある。あぐらは体に悪いと思う。
音がぶちぶち途切れるのは、僕のUA100のせいだと思うけど、四畳半と宇宙といえば、松本零士なので、daft punkとの違いを打ち出したほうが良いと思う。たしかに打ち込みだけどテクノじゃない、とか、客層が全く違う、という理由でdaft punkをほったらかすのは、ある種の自閉した社会の中の(に生きる人間の)怠慢だと思う。「聴き手」がどのような記号を読み取ろうとしているか、ということこそが問題だと思うし、残念ながら、「音楽そのもの」を聞く人というのはあまりいないと思うので。
僕がうつってるわけではないのに、なんか恥ずかしいなあ。

他人事だと思わないと出てこない感想だなあ。何かの役に立つ感想だとは思えない。うーん。
たぶん10年以上使ってきた、あの下敷きがどこかにいった。


好き好き大好き

→下敷き
そういや、出てきました。

言い訳
ここには、好悪の感情(感情で言えば、僕は、懐かしい。)とか、批判 / 批評精神はないし(たぶん、そのようなもの「すら」ない。申し訳ない。僕は、個人的に知っている人間相手にそういうことをする時は、ちゃんと、届くようにする。)、方向性云々に関する希望、要望、指摘云々もない。
そして、このブログに書かれている感想文のほぼ全ては、数分で書かれている。

→大雑把な解説
30年云々:「ある社会の中での音楽の機能」に思いをはせようとして出てきた数字だと思うけど、その思いは、たぶん別の何か(喉が乾いたなあ、とか、洗濯するか、とか)にすりかわったので、この考察に深みを期待してはいけない。
既視感とか数年前に対するノスタルジー云々:大半は、僕自身が「懐かしい」と思ってしまったことに対する自戒な気もしてきた。もしくは「あらゆる文化的産物は時代的に制限されていること」を、自分に言い聞かせてた気もする。時代に縛られた何かにノスタルジーを感じるのは良いとしても、その対象が、事実とは異なり、大昔からそのような姿で存在し続けているかのように感じるのは不健康だと思うので(意訳:今という時代に縛られたキセルに、ノスタルジーとかリラックスさせてくれる何かを感じるのは良いとしても、「キセル的なもの」が、数十年前からそのような姿で存在していたかのように感じるのは不健康だと思う、という話)(そんな風に感じる人間っているのかな?)。
松本零士とdaft punk:daft punkについては僕もほとんど何も知らないので、あまり何も聞かないようにしよう。
ある種の自閉した社会の中の(に生きる人間の)怠慢:何考えてたんだろう?たぶん、キセルもdaft punkも、同じ世界の中に生きてるんだ、とか、そういうことを考えてた気もする。
「聴き手」がどのような記号を読み取ろうとしているか、「音楽そのもの」を聞く人:僕の偏見だけど、たいていの人は、楽曲の構造とかリズムとか音色とかを分析的構造的に聞くのでも、そうしたものの総体を聞くのでもなく、「その曲、その曲を作る人たち、その曲を演奏する様子(ステージの作り方とかも含めて)、その曲を流通させる様子等々」の総体を聞いて見るんだと思うし、だとすれば、キセルとdaft punkの差異は、そんなに大きくない気がしてたんだと思う。たとえば、50代の人間にすれば、どっちも「若い人の音楽」と言われてしまう可能性は大きい気もする。(この先は考えていないので、だからどうした、とか言わないで欲しい。)
恥ずかしい:僕が恥ずかしがったのあって、見たものが恥ずかしかったわけじゃない。知っている人間がずっとDVDに写ってたから恥ずかしかったのです。

まあ、がんばろうぜ。9月か10月か11月に京都に来るのに気づいたら、会いに行くわ。
あと、おめでとう。

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