Sunday, August 20, 2006

ポーリン・オリヴェロス - ソフトウェア・フォー・ピープル

ポーリン・オリヴェロス - ソフトウェア・フォー・ピープル―現代音楽へのジェンダー的論考
全て読んだわけではないけど、僕にとって重要なものを幾つか。「音の観察」とか「アルヴィン・ルシエ」とか。『ソニック・メディテーション―音の瞑想』と重なってはいないけど、日本語版では、元のSoftware for People Collected Writings 1963-80のうち、幾つかは省略されている。省略された「ソニック・メディテーションについて」は『ソニック・メディテーション―音の瞑想』に収録されている。

瞑想、環境音についての考察、音楽とフェミニズムについての議論、が、オリヴェロスの三本柱らしい。分かりやすいまとめだと思う。

「人々のためのソフトウェア」という創作態度は大変興味深い。広い意味での「演奏すること」に「音楽の本質(のようなもの)」を見出す若尾裕にぴったりに思える以上に、「聴くことの能動性」にしか聴き手の創造的な活動が認められ難い実験音楽よりは「楽しい」と思う。
なので、瞑想やワークショップが中心のオリヴェロスの活動を、ケージに並ぶ西洋音楽史上における転換点に位置づけることは、そのパースペクティヴによっては、可能だと思う。ジャック・アタリの『ノイズ―音楽・貨幣・雑音』を使って議論を展開して、音楽療法等々とともに言祝ぐ事も可能だと思う。
でも、それは「未来の音楽」って言って良いのか?オリヴェロスがどうあれ、Deep Listening Bandの演奏やBye Bye Buttreflyは「(テクストとしての)作品」として受容するしかないし、しょせん、今もまだ「作品」に基づく文化(こんな言い方したっけ?)なのだから、あんまし、そういう試みを「未来の音楽」と言える気にはならない。
オリヴェロスのこういう試みこそが「未来」を形成する可能性を持つ、というのがL. Goehrの議論の肝だった覚えがあるので、そうだと言われれば、僕の位置からはあまり何も言えなくなるのだけど、僕は、まだ、野村誠程度には「作曲家」としての自分を残しているほうが受容しやすい。これ、僕の問題かな?

あと、どうやら僕はほんとうにジェンダー的論考には興味がない。
騒音問題や文明論をまったく除外し、ひたすら自らの感性に基づいて音を聴く態度を、男性文化的な攻撃的な感性から決別したフェミニズム的受容だ、という視点が、全く納得できない。そのようなあり方を「女性的」と述べる視点こそ、女性に対する幻想が混入した男性的な視線の産物ではないか、と思うのだけど、これは、逆に、僕の女性理解が歪んでいるのだろうか?僕のパースペクティヴには、様々な場所で歴史的に女性が排除されてきた、という視線が欠けていると思うので、もうちょっと勉強しておくこと。

「環境音についての考察」は、雑駁に、大変興味深い。僕が今「人々のためのソフトウェア」として使えるソフトウェアは、これくらいだし。環境音を「音楽の素材」として聴く、とまとめると単純化し過ぎていて、従来ならば「音楽のモティーフ等々の素材」と呼ばれたであろう様々な環境音を聴き、しかしそれらを「音楽」にしようとするのではなく、その動き等々を聴く、という態度は、一概にその目的(地)を決めるわけではないので、まとめにくい。「聴くこと」を人生の主要なファクターとして生きてきたんだろうなあ。という感想だけ。これは、もっと何か考えること。

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