
これはDVDになってるらしい。
「カオス」って、はっはっはっ、とか思わずに、その話を踏まえた上で何か考えたいと思うのだけど、PCに取り込んでいる最中に買い物に行って、帰ってきたらカトラーが、カオスの只中での定常状態の生成としての即興、みたいな話をしていたのであった。今日は、ちゃんと間違えずにおくらを買った。
なので、漠然としたことしか考えられないのだけど、この即興はカオスの只中での定常状態かもしれないけど、その「カオス」は、たいして広大無辺なものではないのではなかろうか、と思った。小さな領土内での差異を争う音楽というところにまで還元してしまう視線の中では、この即興もJPOPも「だいたい同じもの」なので、僕は簡単に「彼の演奏はスリリングの一言に尽きた。」とは言えない。
僕は、たぶん、これを、どこか遠くのどこかの何かではない具体的な名前を持つ何者かとして扱う。そのほうが良いと思う。言ってることだけなら、バタフライ効果に心酔するケージへの部分的な批判がこもっているので、フルクサスの世代の音楽家たちのようなお話なのだけど、クリス・カトラーがそのようなお話をする意味について考えていないので、幾つかの何かのファクターが足りないので、分からない。
僕はドラムにエフェクターをかけるつもりはあまりないし、それ以前に、一人ですることにも即興することにもあまり興味はないので、それより、手でセットを叩く様子に感心した。
これは、クリス・カトラーとピーター・ブレグヴァドとジョン・グリーヴスが西部講堂に来た時のカトラーのツアーのドキュメンタリーらしいけど、印象に残っているのは、カトラーは厳格なヴェジタリアンで、左翼で、好きな音楽するために年に数ヶ月は嫌いな音楽のツアーとかで稼いでいて、カトラーにとっては、ミニマル・ミュージックは実験音楽の末裔というよりは構造がやたら明確な音楽だってことと、あと、あんまし人にお礼を言わない人だってこと。現物が残っているのは、Kジルのpre-agedの裏に書いてもらった、三人のサイン(とマンガ)。
これは十分センチメンタルなエピソードだろうか?
そういや、甘い追憶のことをノスタルジーというらしい。この場合、追憶とは、たんに「過去を思い起こすこと」程度の意味らしく、「甘さ」は、物語としての記憶に支配権を持っているかのように感じたりすることから生まれてくるらしい。どうやら、物語としてある程度完結してくれないとノスタルジーの対象にはならないんだと思う。
たぶん。
センチメンタルとか他のこともきいたけど、忘れた。
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